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Quest #029

虚しさと憤りをつらつらと。

今日はDQXに全く関係のない話をしようと思う。予めご理解頂きたい。

私は別にいい人でもないし、善人でもない。大悪を犯す勇気もないし、その程度の理性は持っているけれど、雑多な小悪を自分に甘く許してしまう小物だと思う。 ごく普通の一般的な価値観をもった庶民といって差支えない。庶民という表現が適正かどうかは悩ましいところだけれど。

その私がもっとも我慢ならないニュースが、親を含めた大人による幼児への虐待、殺害である。 つい先日もわずか3歳の幼子が親に愛情を注いでもらえず、なおかつ満足な食べ物も与えられずに孤独な死を迎えたという報道があった。

なぜこんな悲劇が起こるのか。

幼児は無垢な存在である。年端もない子供の親への愛情は混じりっ気なしの純愛そのもの。 そんな子供が生きるための手段を与えられず、玉ねぎの皮やアルミホイルやそういったものを口にしてでも飢えを凌ごうとあがいた揚句、結局命を落としている。

痛ましくて涙が出る。なぜ私はその子の命を救えなかったのかと悲しくて虚しくて憤ろしさで一杯になる。 そのくせここで駄文を起こす程度にしか行動を起こせない自分の情けなさがやるせない。

純粋無垢な子供にそんな仕打ちを行った親が、逮捕されたとはいえこの後税金でぬくぬくと食事を与えられるなんて我慢ならない。 亡くなった子と同じように3カ月間孤独に飢えさせて欲しい。死んだところでかまうものか。生かしておく意義が私には見いだせない。 同じ殺人ではあるけれど、怨恨あって大人を殺すよりも、幼児や特に育児対象に対する意図的な殺害ははるかに罪が大きいと思う。 そこまでの大罪を犯した人間を、なぜこの国の法律は守るのだろう?守る意味があるのか?

一方で我々は本当にこの子をすくうことが出来なかったのだろうかと自問する。

もちろん私がその場に行って助けるのは物理的に不可能だったと思うのだけど、社会の一員として制度としてこうした命をつなぐシステムを真剣に考えてもいいと思う。 現在のシステムでは、児童相談所などに通報があっても、養育者である親などが相談、救済を拒否した場合、公共施設は幼児に手を差し伸べることは出来ない。 その養育者自体が加害者であり、自身が罪人、あるいは不適合者のレッテルを貼られるのを恐れたための拒否であってもだ。

意味があるのか?

児童相談所の権限を拡大し、必要とあれば家宅侵入、両親の意思に反して幼児の保護、隔離ができるようにしてはいけないのか。 もちろん警察官の立ち合いなど、第三者の仲介が必要という条件付きにはなるけれども。

望んでも子供ができない家庭がある。

そうした家庭が希望された場合、地理的にはるかに隔離された土地という条件付きで児童の受入は可能だと思う。 児童を性の対象として見るド阿呆もいるので、預けることのできる相手は夫婦に限った方がいいかもしれない。

また一方で幼少期に親の愛情を十分に注がれなかった子供は、成長の過程において親の愛情を試すように問題行動を起こすことが多いとも言う。 里子に受け入れたとしても、すべてが順風に行くとは思えない。 受入先の夫婦が良い人で、受け入れてもらった児童も根が良い人間だったとしても、成長の過程でどこか自分を責めたり、養父母に当たったりすることもあると思う。 成長していけば、いずれ感謝して血のつながり以上の絆を築くことも出来ると思うけど。

里子制度が難しいのであれば、成人するまでの期間過ごすことが出来る施設に預かるのも良いと思う。 里子に出されて、周囲が実際の血縁関係のある親子ばかりだった場合、自分を異端に感じてしまうかもしれないけれど、同じような境遇の子供たちが雑居し、子供同士で助け合って生きていけるのであれば、過剰な異端視を防ぐことが出来るかもしれない。 くそったれな親に殺されるより、よほど幸福だと思う。それではだめなのだろうか。

師走になろうという時期に、衆議院議員が解散してしまった。これで26年の政務は著しく滞る。 現状で救えない命は、結局制度としては救えないまま。選挙に勝つことが政治だとクソみたいな政治家は思ってるのかもしれない。 大事な法案、世のため人のための政策。それらを通すための選挙であり、政権争いなのだろう。

でも、政権をとらなければ通らない程度の政策は、やっぱり知恵が足らないんだよ。

こういう愛に恵まれない子供をすくうために、我々大人が何かをすること以上に大事なことは、実はそんなに多くない。

政権争いなんぞに明け暮れてないで、大事なことを大事にしてほしいと願わずにはいられない。

でも結局他力本願な自分自身の無能さが、一番憤ろしいんだけどね。


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