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Episode #003

アズランの湿原に低く垂れこめた霧が蒼穹からの陽光を受けていよいよ白さを増して輝いている。
その様子を眺めながらアトムははにかんだ笑顔を見せた。

 

「デボさん、これ…覚えてる?」

 

傍らに腰かけたアトムが差し出す封書を見て、俺はすぐその真意に気付いた。
冒険者協会発行の討伐依頼書。討伐対象はダークパンサー。
俺と彼女が共に掃討に当たった最初の魔物だ。

 

「覚えてるよ、大変だったよね」

 

「うん。二人してすっごい苦労したよね」

 

もうずいぶんと前のことのような気がする。
それは俺がまだ入隊して間もない頃、ヴェリナード領西のダークパンサーの討伐に向かった時のことだ。季節は冬の終わり、春の陽気に厳しい寒さが少し和らぎを見せた頃だったように覚えている。
冒険者として日々研鑚に励んでいた俺は、討伐隊から課せられた試練に息をのんだ。ダークパンサーは鋭く伸びた長い牙と鋼鉄をも切り裂くという強靭な爪をもつ凶暴な魔獣で、中堅の冒険者にとっては鬼門肌の強敵だった。
当時、戦士としても半人前の俺にとっては、大きな試練だったと言える。

 

冒険者協会で協力者を募り、大量の薬草と小瓶を買い込んで討伐行に赴いた俺は、最初の一、二戦で自身の目算がまだまだ甘かったことを知った。
強い。途方もなく強い。

当時の俺には残忍な黒豹の姿がそのまま悪夢の象徴となった。
一戦一戦が死戦。やっとのことでトドメを刺しても、すぐに別の敵に襲い掛かられる。必死の思いで退路を探し、岩陰に潜んで回復をはかった。
十分な体力が整ったところでまた一戦。そんな死闘を繰り返した。

 

アトムが現れたのはそんな時だった。

桜色の髪を潮風になびかせて現れた彼女は少し上気した顔で笑って見せた。

 

『隊でデボさんがダークパンサー討伐に向かったって聞いたから。良かった、ちゃんと辿りつけて』

 

俺よりはるかに戦歴を重ねているアトムは、この討伐行の難度がわかったのだろう。
彼我の力量を比べ、すぐさま旅装を整えて駆けつけてくれたのだった。そしてその行動の背後にもう一つの冒険があったことをその時の俺は気づいていない。

 

「あの時、よく俺のとこまで迷わずに来れたよね」

 

依頼書をひらひらと風にそよがせながら、どこか上機嫌に空をみあげるアトムに俺はいたずらっぽく言葉をかけた。

 

「ダクパンのとこでしょ~。ヴェリナードから近いじゃん。行けるよ…た、たぶん」

 

その言葉が急速に自信を無くしていくのを感じ、俺は思わず吹き出した。
アトムがむっと頬を膨らませたが、目が笑っている。
そう、彼女は基本的に方向感覚が人より劣る。戦闘時にあって敵の繰り出す攻撃を巧みにかわし、イキイキと猛攻をかける時の彼女からは想像もつかないが、生粋の方向音痴なのだ。
故に隊内では時に迷走系とかぐるぐる系などと呼称される。概ね呼んでいるのは俺ばかりだが。

 

アトムの加勢により、ダークパンサー討伐は一気に加速した。
だがしかし、それでも魔獣の攻撃は重厚かつ兇悪で、小柄なアトムが宙を舞うこともしばしばあった。彼女の鋼鉄の爪が魔獣の四肢を切り刻み、俺の剣が牙の攻撃を受け止める。
激戦を繰り返す中で少しずつ俺たちの連動は厚みを増し、魔獣を圧倒する数も増えた。
そして十数匹は狩ったであろうか。あるいはそれ以上であったかもしれない。切り裂いたダークパンサーの腹腔からキラリと光る天桜石を手に入れて、厳しかった討伐は終わりを告げた。

 

「行っとく?これ?」

 

アトムがいたずらっぽく笑う。

 

「…いや、よす。俺、そいつ嫌いやねん」

 

当時散々切り刻まれ、大地を這いつくばった記憶が生々しく呼び起されて、俺は渋面をつくった。今度はアトムの笑声が軽やかに響く。
今の俺の力量であれば、ダークパンサーは物の数ではないだろう。それでも精神的に刻み込まれた傷跡を払うことは容易ではない。


見上げた空に既に霧は晴れ、澄み切った蒼穹を遮るベールは何一つない。

俺はベンチから立ち上がると、腰から水筒を外して中の水をアトムの庭の一角に注いだ。
水はロヴォスの高原の湧水をくみ上げてきたものだ。菜園の作物にもきっと良い成果を残すだろう。

 

「これ、デボ汁ね。その内この庭から俺が生えてくるよ」

 

「…嬉しいこと…なのかな、それ」

 

苦笑するアトム。
その穏やかな振る舞いからは戦時の激しさは微塵も感じられない。

 

「さぁ~て、俺はこれから迷宮探索に行くけど、アトちゃんはどうする?」

 

「ん~、今日はあいあと討伐かな」

 

そっか、と微笑んで俺は水筒を腰に戻し、傍らの荷物を肩にかけた。
愛用の段平を背負い直し、いよいよ旅装を整えた俺にアトムの声がかけられる。

 

「いってらっしゃい」

 

「はいな。アトちゃんも気をつけてね」

 

馴染んだ言葉を互いに交わす。あれからどれくらいの月日が経ったのかは正確には覚えていない。
でも今こうして俺があるのは、彼女が共に苦難に立ち向かってくれたからに他ならない。俺も他の隊員に対して、同じように労を尽くせる存在でありたい。

 

懐から取り出した転移の飛石が輝きを増し、周囲が白熱して体が宙を舞う感覚にとらわれる。

手を振るアトムをアズランに残し、俺は飛石の示す先へと蒼穹を舞った。

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